男性用アオザイの復権を 魅力アピールで着用促す動き

男性のためのアオザイ・イベントがこのほど、オールド・クオーター・カルチャー・エクスチェンジ・センターで開催された。「ベトナム遺産の日」の行事の一つとして行われた。

写真㊤=ロシアの外交官とともに、イベントでアオザイを着るベトナムの外交官、ファム・サイン・チャウ氏(左)

イベントで目をひいたのは、アオザイ姿で現れた在ベトナムロシア大使のコンスタティン・ブーコフ氏とベトナムの外交官、ファム・サイン・チャウ氏。アオザイは、ハノイのウンホア地区チャクザー村の職人によって仕立てられた。男性のアオザイが、このように脚光を浴びることは非常に珍しく、歴史的、文化的な衣装の継承が国民的な課題となっている。

資料によると、ベトナムのアオザイの歴史は18世紀にまでさかのぼり、グエン朝(阮朝)時代、中国の衣服と区別するために生まれたという。王朝では現在のものに近いアオザイに関する記録が残されている。

アオザイは19世紀前半、同朝の領土が広がる南部の知識層や上流階級の間で広まった。

上流階級で着られるようになるにつれ、男性用のアオザイは特別な哲学的な意味を有するようになる。たとえば、5つのひらひらとしたフラップを持つチュニックが登場したが、これらのフラップは、自分自身とその両親、そして妻の両親を表したとされる。また、アオザイは5つのボタンを持ち、それぞれのボタンは人道性、正義、礼節、知識と完全性の5つの徳を表した。生地も刺繍など華美な装飾はなく、無地で軽く、落ち着いた色彩に限られていた。

転機が訪れたのは19世紀後半。西洋文化の流入とともに、衣装も西洋のものが好まれるようになった。アオザイも着心地のよさや、満足感を満たす要素が求められるようになり、袖の引き締まったデザインとなり、ターバンもセットされるようになった。特に北部では、男性のアオザイの丈が短くなった。

1930年代、西洋文化の影響がさらに強くなると、アオザイは、西洋の衣服にその場を奪われるようになった。ハノイの写真家、グエン・フー・バオ氏によると、上流階級の衣服は、父親と母親がアオザイを着て、息子と娘は西洋のスーツやドレスを着る姿が一般的になっていった。

それでも、男性用のアオザイは社会において重要な位置を占めていた。歴史家のデュオン・チュン・クオック氏によると、1945年のベトナム8月革命以降も、故ホー・チ・ミン国家主席をはじめ政府要人らは公式行事などの際、アオザイを着用した。

しかし、ベトナム戦争に突入すると、日常の衣服はより利便性や簡素化が求められるようになり、男性用のアオザイは、暮らしの中から姿を消し始めた。最大の理由は、人々の意識の変化だった。アオザイを着ることは、封建主義への回帰とみなされるようになった。

一方、女性用のアオザイは幸運にも全くことなる道を歩むことになる。1930年代、アーチストのレ・フォーやキャット・チュオンらの作品を通して、よりファッショナブルでエレガントなものへと進化するとともに、日常生活の中に溶け込み、女性の伝統的な衣装とみなされるようになった。

2013年の国内衣料調査がそのことをよく示している。調査では回答者の100%がアオザイについて国を代表する女性の衣服と考えていることがわかった。これに対し、男性の場合はわずか3%だった。

アーチストのグエン・マン・ドック氏は「長引く男性用アオザイの空白期によって、男性用のアオザイは時代遅れで、生活にそぐわないものと思われるようになった。改良や修正などの努力がなされてきたが、大きな成功にはいたっていない」と話す。「デザイナーの中には、シャツやジャケットのようにごちゃごちゃと複雑なデザインにしてしまい、本来のシンプルさや威厳を見失ってしまった者もいる」とも指摘する。

しかし、男性用女性用を問わず、アオザイは単なる衣服ではなく、数世紀にわたって継承されてきた文化遺産でもある。女性用アオザイに多くの関心が寄せられてきたように、男性用のアオザイにも関心を寄せることが今、必要なのではないだろうか。