伝統産業の火を守れ 〝最後の鍛冶屋〟が奮闘

ベトナムでは古くから農業が、国家経済の重要な役割を担ってきた。田畑を耕し、効率的に収穫を得る農具は、国民にとって暮らしを支える重要な生活用具だった。こうしたなか、良質な農具を製造する技術が長い時間をかけて育まれてきた。

写真㊤=ローレン通りの仕事場で、赤々と燃える鉄をたたくフンさん

ハノイ市のオールド・クオーターにあるローレン通り。通称「鋤(すき)屋街」とも呼ばれるこの通りは、もとは別の名前の通りだったが、鋤を作る鍛冶屋とその家族が大勢移り住んだことから、「鍛造炉」を表す「ローレン」の名がつくようになった。

この通りで鍛冶屋を営む、グエン・フォン・フンさんは、郊外で稲作をする農家のために鋤を製造、販売している、通りで最後の鍛冶屋だ。家屋は裏が住居、表が工房兼店舗となっており、工房では4㍍四方の手動の炉が今も使われ、かつての鍛冶場の名残をとどめている。

60歳近いフンさんは、鍛冶屋としては3代目。6、7歳のときに父親と祖父に鉄の鍛え方を教わり、17歳のころから将来はこの仕事を継ぎたいと、と考えるようになったが、数年後、運転手や自動車工になり、いったんは鍛冶の仕事から遠ざかった。しかし、35歳のとき、自分の背負った運命をまっとうしようと覚悟を決め、再びこのまちに帰ってきた。以来、この通りに住み続け、数年間におよぶ厳しい修行を続けてきた。そして、42歳を過ぎたとき、ようやく父から炉を任された。

鍛冶屋の仕事への愛

フンさんによると、祖父はハノイのトゥ・リエム地区のカン村から今のオールド・クオーターに炉を移した最初の人だという。主に鋤などの農具を作っていたが、インドシナ戦争時代は、独立に向けてフランスと戦うレジスタンスの武器なども作ったという。

ローレンの鍛冶屋台が衰退し始めたのは1995年、政府が輸入品に門戸を開放してからだ。彼の周囲でも同業者が、1人2人と転職していった。親戚は、通りに面したフンさんの店を、もっともうかる賃貸アパートなどにするよう勧めている、しかし、フンさんは「お金を稼ぐよりも、伝統ある家業を継承する方が重要だ」と拒んでいる。

フンさんはこの仕事を愛している。そして、自分が熟練工であること、よい鉄製品を作るために季節や気候に応じて炉の温度を自在に調整できることを誇りに思っている。現在、助手を雇わず1人で仕事をしていることについて、「助手を見つけるのは大変。若い人はきつくて、汗まみれになるような手仕事を好まない」と打ち明ける。

「鍛冶屋がほかにだれもいなくなる日もいつかくるだろう。でも、そのときは、私が市場を独占できるかな」。冗談まじりに笑うフンさんは、体が許す限り、この仕事と店を守っていくことを固く心に誓っている。