カンボジア野党党首、サム・レンシー氏に関する報道②~その経歴と言動

カンボジアで行われた下院選挙(7月28日)の後、サム・レンシー氏の名前が、電子新聞などで注目を集めている。サム・レンシー氏とはどのような人物なのか。また、人々はその発言をどのように感じているのだろうか。

フランスのジャーナリストによれば、サム・レンシー氏は貴族層の出身。父親のサム・サリー氏は1950年代、シアヌーク元国王時代に著名な政治家として知られた。しかし、サリー氏は失脚し、1965年に暗殺された。16歳だったサム・レンシー氏はフランスに渡った。フランスの名門校であるLycee Janson de Saillyやパリ政治学院(Sciences Po)といった有名校に通い、Fotainebleau(フォンテーヌブロー)では世界でも有数のビジネススクール(大学院)である「INSEAD (Intitut européen d’administration des affaires)」で学んだ。

金融・銀行の分野で専門的な知識を修得したレンシー氏は「BNPパリバ」など、フランスの大手銀行に採用された。その後、自身の政治活動をスタートさせる。
1993年、FUNCINPEC党(フンシンペック党)の党員として、シェムリアップ州選挙区で議員に当選。FUNCINPECとカンボジア人民党との連立政権では、財政大臣に就任した。しかし、翌年の1994年に失脚し、FUNCINPECを除名された。

その後、他の政党からの協力は受けず、1998年に自分の名を冠した政党「サム・レンシー党」を設立した。そのころから、彼の中に何か変わったものを感じる人たちもいた。「自分ほど頭の良い者はいない」との思いが強く、他人を評価せず、協力を求めない、とみなされ、それを高慢と感じる人々もいた。

2009年10月25日、当時、サム・レンシー党の党首だったレンシー氏はベトナムのロンアン省とカンボジアのスヴァイリエン州との国境付近に赴き、国境番号「185」周辺の「暫定的国境ライン」を示す杭(ポール)6本を抜き、カンボジアの首都・プノンペンに持ち帰った。それは「この杭はカンボジア-ベトナム両国の国境を示すものではない」という主張とみられた。以前からレンシー氏は「カンボジアの領土をベトナムが侵略した」と発言していた。

ベトナム政府はこうしたレンシー氏の行動や発言に強く抗議した。「レンシー氏の行動は、ベトナムとカンボジア共通の財産を破壊しただけでなく、ベトナムとカンボジアの法律に違反する。また、両国間の協定や約束、合意に反する。その行動は敵意を生み出し、両国の友好関係を破壊する」。

彼の行動に対して、スヴァイリエン州は裁判に訴えた。2010年1月27日、有罪判決(禁固2年)が言い渡されたが、レンシー氏はフランスに渡っていた。
また、同年、プノンペンの裁判所は「カンボジアとベトナムの国境標識である杭を抜いた行為は『国家財産の損壊』にあたる」とし、さらに、「資料を偽造した」として、レンシー氏に有罪(禁固11年)判決を下した。

今年7月、レンシー氏はフンセン首相の求めに対するノロドム・シハモニ国王の恩赦で帰国が実現した。フンセン首相が国王に恩赦を求めた背景には今回の下院選挙で「民主的、自由、公平な選挙を実現する」そして「国内の民族統一」という願いがあったからだろう。

政治評論家たちは、レンシー氏がなぜ、ベトナム政府とベトナムの人々に対して強硬な態度をとるのか理解できない。彼の家族や親族がベトナム政府、ベトナムの人々から何らかの被害を受けたことなどない。それなのに、どうしてこのような言動を繰り返すのだろう。

国王の恩赦で、帰国したレンシー氏はスヴァイリエン州で選挙運動を開始した。その際のメッセージにはベトナム人への強硬な姿勢が含まれていた。ベトナム人に対する差別的な呼び方が使われた。「(ベトナム人の蔑称)カンボジアに来た。我々の領土の境界線を移動した」。そして「カンボジアの領土を守るために、サム・レンシー(同氏が党首を務めるカンボジア救国党)に投票して下さい」と訴えた。

さらに、サム・レンシー氏は「ベトナム人が国境を越え、法律に違反して選挙に参加した」と主張した。ベトナムと隣接するカンボジア国境地域にいた外国の選挙監察団は「ベトナム人が国境を越え、選挙に参加することなど絶対にない」と確認したが、プノンペンでは、投票に訪れた男性がベトナム人とみなされ、暴行されるという事件が発生した。

香港のAsia Sentinel(アジア・センチネル)のニュースサイトは、サム・レンシー氏が政党のリーダーとして有権者に「ベトナム人は怖い存在であり、彼らはカンボジアに越境して仕事を奪う」などと主張していることについて、指摘している。「カンボジアに居住するベトナム人の多くは電気工事や水道工事、理容師などの仕事に従事している。これらの仕事は、カンボジア人があまり就きたがらない職業ではないのだろうか」。